2020.08.03
なりわいを考えるシリーズ
「キライなものと、その理由」を問われた、だけなのだ。【編集道場の超私的ギジロク:其の1】
編集は「作業」ではない。「思考」である。――――とは、当編集部の編集長の編集観。
神戸でなりわうPROJECT や DEMOくらし の記事は、編集会議ならぬ「編集道場」で制作しています。
企画する。観る。聴く。感じる。書く。撮る。描く。組み立てる。
制作行為ひとつひとつを通して、自分と記事、記事と世の中の接点を思考する稽古の場です。
ペンネーム「816号室」。
2020年7月1日。この日はじめて編集道場を訪れた彼女が、編集長がその場で出したお題「キライなものと、その理由」に際して思考したことを、脳内議事録として記してくれました。
文:816号室
キライなもの、とその理由を問われた。直ちに降るモヤは、少なくともふたつ。嫌いではなくキライ。問いを問う穴に、つい落ちた自分にモヤひとつである。四択マークシートならば、問い問うに絡んだ答えを選べば、おそらく正解だろう。
トップは、ライブイベントをキライとし、口火を切った。のちの、作戦派だとか、神さまの話しなどを鑑みるに、共有される時空間と自分、その距離でのスペースに、キライは湧きだす感覚のようである。
2番目は、キライの理由を予定調和と言った。この場合、キライが湧く場は、思考の径路にあるようで。その界隈に、モヤふたつがあるとふみ。挙手したわたしは3番目。
キライなものが浮かばない。
キライなものが決められない自分は、キライである。
キライとスキはセットに、スキとキライが、表と裏であることは、大いにありえて。
キライなものが決められない自分は、スキでもある。
キライとは、ひらひら翻ると捉えてきた昨今に。キライを断定し、キライを述べよと。その前提が、モヤふたつのようなのだ。
4番目は、人が人を喰らうストーリーがキライとした。身体感覚を含んだ嫌悪感は、掴みやすく、このキライは、頷ける。キライより嫌いのような感触である。具体的である。笑顔で話している。困っても悩んでもいない風である。であるが、正直、ここには立ち入らぬ方が良かろうか。良かろうな。
5番目は、人数が多く集まる場が、キライだそうだ。居場所がないよう感じてしまい、何を話して良いのか戸惑うらしい。キライというより苦手ではないかと、指摘が入る。キライと苦手はニアであろうか。別個であろうか。境界はいずこか、線か面か、立体か。
キライなものが決められない自分には、その理由に連なる原風景はない。刷新された感覚の景色で成り立たせた理由があるばかりである。キライなものには、過去のごにょごにょと絡めとられたじっとりでなく、もう少し風通しのよい雰囲気がある。カタカナの妙。
日常は、問いが溢れて、問いにまみれて進みゆき。自分の地層をどこまでえぐるか、常日頃、選択せねばならぬので。キライなら、軽やかに、いまを移り行く肌感覚で、答えてしまう。その行為には、自分の覚束なさと、えぐり過ぎ失敗した過去が、投影されていて。
キライなもの、とその理由を問われた、だけなのだ。改札を抜け、信号をわたり、小径に入って。いまココ。まーまー疲れた。
なりわいカンパニーuser
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