2021.02.17
なりわいを考えるシリーズ
「仕事」が見つけた「タケウチシノブ」 なりわいカンパニー(株)竹内しのぶさん【後編】
「仕事」が見つけた「タケウチシノブ」
私にはずっと、私たちは「自分の名前」でする仕事を選んでいるのか?(選んでいると思っているが)実は選ばれているのではないか?という問いがある。
谷崎潤一郎の『文章読本』のなかで「言霊」についても触れられている文章
”言葉は一つ一つがそれ自身生き物であり、人間が言葉を使うと同時に、言葉も人間を使うことがあるのだ”
言霊のように、実は仕事の方が私たちを使っているのではないか?
そう感じたのは、私自身は一度も仕事として捉えたことがない”食”というテーマを、竹内さんがずっと追い続けているからだ。むしろ彼女の物語からは、”食”に竹内さんが追いかけられているようにも見える。
竹内さん:
私が生まれた家は、地域全体貧しい家が多かったんです。
とにかく食べることが最低限必要で、生きるためだけに食べているっていう感じの人が周りに多かった。生命を維持するために食べるだけ。
だからこそ、たまに外食したり、ちょっといいものを食べることが楽しみで、幸せになっていました。
でも、食べることを楽しむって、お金があろうがなかろうが自分の工夫次第でできるんですよね。例えば私のおばあちゃんの家は、商店街から路地に入ったところにあったんですけど、当時はサザエさんみたいに籠を持って、ボール持って豆腐買いに行ってました。
季節のもの、旬のものが一番美味しくて安くて体にもいい。あとうちのおばあちゃんが、小学校高学年の時に戦争中で食べるものがなかったんですって。
だから、闇市に買い物に行って、食べるのが楽しみやったって。彼女は子供を5人育てているので、いつも自分のことは後回しになっていました。
「お腹が満腹になればいい」という感覚で、ご飯にお湯かけて食べるだけなんてことがしょっちゅうだったとか。
そのせいで晩年は骨粗鬆症になって膝に穴があいてしまい、とにかく体が消耗してました。
本当は、きちんと食べることで健康に生きることができるのに。もし知識があったら、旬のもの、安いものを買い集めて食べたり、今あるもので選択することができたはずやと思います。
地域が狭いので、子供の時からコミュニティで人が亡くなってよくお葬式に出ていて、死が身近にあったというのもありますね。もっと長生きできる方法がなかったんかな?と。明日死ぬとは誰も考えていなかったけど、死んでしまっている。
長生きするために、健康に生きるために、何かできることあるんやないかな、と小さい頃から考えていました。
「好きを仕事に!」という言説は昔からよくある。
私は「いや、わかるよ」といいつつ、「でもホント、それ?」という懐疑的な部分がずっとあった。
なんだか分からないけど惹かれる、ほっといてもしてしまう好きなことの中に、自分の名前ですることになるであろう”仕事”の種がある可能性は高いだろう。
でも、もしかしたらそれはあなたが”好き”な仕事を選んでいるんじゃない。「仕事」側があなたの名前を選んでいるんだとしたら?
竹内さんの物語は、常に「食」と「生きること」、そして「生」と表裏一体の「死」で紡がれている。
大学生のとき、彼女は阪神大震災を体験する。
竹内さん:
震災後は、生きて行くのが大変で、おばあちゃんの戦後と一緒な感覚でしたよ。
食べるものがなくて。集合住宅だったので配給はされるんです。全然暖房とかないし、めっちゃ寒かったし、とりあえず最初は食べられるものを食べてしのいでいました。そして、震災の2日目に炊き出しがあちこちから来てくれて。豚汁とかけんちん汁とかあったかい食べ物を食べた時に、「なんて幸せなの!」って。
やっぱり食べるもので幸せになれるんやな」って感じて、
食べることは、生命を維持するためだけでなく、”幸せ”に繋がるってのを実感しました「好き」という一言では表現し尽くせない、宿命のようなもの。
仕事が自分も含めて誰かを幸せにするためのものであるならば、やはりその「仕事」がタケウチシノブという名前の「彼女」を見つけたのではないだろうか。
とっくに全身丸見え
人間って不思議なもので、自分という名前を認知されたいという欲望と、「いやいや、私は物陰に隠れておきますんで。ええ、ええ、放っておいてください」という認知されることへの不安や恐れ、この矛盾をはらんだ感覚を同時に持つことができる。
機械なら、こうはいかないだろう(たぶん)。
「自分の名前でなりわう」という言葉を前にして、竹内さんと私が相対したその感情について語り合ったとき、
「あれ?もしかして、そんなことを言い訳にして物陰にうまく隠れていると思っているのは自分だけ?実は外側から見たら、とっくに全身丸見えなんじゃないか?」
という不思議な感覚に陥った。
今回、『アスレシピ』に自分の名前で記事を書くことにチャレンジしてみての気づきを、竹内さんに聞いたときのことだ。
竹内さん:
何度かの転職の話をしましたけど、「こういうことができる人を連れてきて」って言われて、毎回紹介されてるんですよね。
でも、”竹内しのぶ”私だから採用してもらってる部分もあるんじゃないかなと。
私が持っているバックグラウンドを含め、考え方ややり方とか、私自身そのものを扱ってもらって、採用されていたんだ、という気づきがありました
あなたについている「タグ」も、あなたが「なりわい」の関係性の中で生み出している価値と変態性(希少性)も、そしてあなたを選んでいる「仕事」も、自分以外の人たちは、当たり前のようにあなた自身を受け取って選んでいる。
むしろ、それら全てを見てみないふりをしているのは、”私”だけ?
おいおい、そう思うと恥ずかしくない?
自分は見えてないと思っているのに、実は外からは丸見えなんですよ。できていることも。できていないことも。
あるものも。ないものも。
「自分の名前でなりわう」
究極的に求められるのは、自分自身の変態性を引き受けて生きる勇気なんじゃないか。
脱量産型として生きる勇気。
自分の丸見え丸裸を引き受ける勇気。
自分がそこから表現してこそ初めて、世界は応答してくるのかもしれない。
竹内さんが、届けたいと思っていた「少年野球チーム」の人たちが、応答してくれたように。
野崎 安澄NOZAKI AZUMI
愛知県在住の2男児の母。NPO法人セブンジェネレーションズ共同代表/愛知アーバンパーマカルチャー発起人。東日本大震災・福島第一原発の事故をきっかけに、子供達に7世代先まで環境的に持続可能な美しい地球と公正な社会を残すための活動をスタート。持続可能な環境・社会を作るためのワークショップやオンラインコースの立ち上げ・様々なコミュニティ運営を行っている。2020年は愛知で仲間達と本格的な米作り&畑もスタート。自分の人生を120%楽しみながらDEMOくらし編集部で編集/ライティングをしています。
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