2020.01.15

なりわいを考えるシリーズ

まちと水ぞく。親しみ、その土壌。〜神戸市立須磨海浜水族園〜【中編】

まちと水ぞく。親しみ、その土壌。〜神戸市立須磨海浜水族園〜【中編】

文:大森ちはる 写真:いしづかたかこ

「親しみ」とは、生活文化にぬめりこんだ記憶。

大鹿:
僕は「なんでもある」の背景に、須磨の地を感じています。例えば沖縄やったら、目の前の沖縄の海域をメインテーマに据えるじゃないですか。でもここは、瀬戸内海を構成するひとつの海域・大阪湾の最奥部。海の恵みに富んで「豊かな海」と評される瀬戸内海ですが、いざ水族館という施設でその豊かさを表現するのはむずかしい。だから、代わりに60年前の人たちは、神戸の港湾性を発揮して「なんでもある」「東洋一の水族館」にしたんじゃないかと。

スマスイには、脈々とあるんですよ。どうやったら「自分たちの地元の海はこうなんだ」と分かりあえるだろうかという問いが。僕らが夏に海でこどもたちにシュノーケリングを教えているのも、そう。園長が地元の漁師さんや地域・行政の方々と調査研究している「須磨里海の会」も。昔は僕も須磨の海に潜って生物調査をしていましたし。企画にしても展示にしても、死守すべきメインをもたない―――「なんでもある」ことで、僕らはそこを軸足に四方八方に自由にはみ出していけます。

もちろん、いまは民間運営だから、お客さんに入ってもらわないとメシが食べられません。社会教育・研究活動に精を出すだけではあかん。こども時代の僕も含めて、大多数のひとは娯楽で水族園に来られるわけですから。

そういう意味では、気軽に来てもらえる水族園を目指してきましたね。ずっと。親しみやすさを前面に出して。日常の生活圏内でスーパーに行くような感覚で来てもらえたらええなぁって。

我が家には神戸生まれ・神戸育ちの小1の娘がいる。スーパーとはほど遠くだいたい年に2~3回のことだけれど、彼女にとっても「須磨に行く」という行為は馴染みのものだ。思いたって電車で出向く。食い入るように見る水槽、ほぼ素通りの水槽、毎回まちまちにそのときの気分で園内を一周する。時間が合えばイルカライブやさかなライブを観る。アマゾン館あたりの広場で、謎の鬼ごっこ発動。合間に、ソフトクリーム。帰りは、須磨海岸を延々あそびながら須磨駅まで歩く。我が家の、我が家によるリズム。

1回や2回ではよそよそしいリズムも、何度も繰り返すうちにからだに刷り込まれていく。大鹿さんは「こどものときの刷り込みは、人生に作用する」と言う。

大鹿:
僕なんかも、こどもに釣りでも教えてやろうと思って、海釣り公園に連れて行くんですよ。釣りが好きなひとやったら人生を通してずっと行っているんでしょうけど、僕は普段しないので、こどものとき以来。こどものときに通って、いつしかご無沙汰になって、親になってまた行くようになる。こどもの頃に生活文化のなかにあった場所は、えてしてそうなりますよね。それで、こどもの頃とはちがう視点のおもしろさが見つかることもある。

釣りもそうですが、水族館というのは、べつに来なくても生活できるじゃないですか。それでも来てくれるわけですよ。目的があって。映画であれば毎回違う作品でまったく違うものを吸収できるところが、水族館(園)はたとえ月2回来ていただいても、ほぼ代わり映えがしないのに。それでも何かを求めて来てくれる。癒しを求めるひともいれば、「暇だから」というひともいる。もちろん、魚が好きなひとも。

いくら料金が安くてもこどもがタダやと言うても、いらんもんはいらんし、行かないもんは行かないですよね。人口150万の神戸市でなりわうスマスイに、年間120万人が来園してくださっている。その比重は意義深いことだと思っています。神戸でいま一番ひとが入っている施設ですし。

僕らからしたら、どんなかたちだとしても、スマスイに来てくれる点でみなさん同じ。その人たちに対して、それぞれにこたえを見つけてもらえるような水族館(園)にしていきたいと考えてやってきました。敷居の低さと、それでは充足できないひとたちを巻き込んでの調査研究の両輪とか。それらが全部「チープ」ということばに置き代わっていくんですけど。

大人から人間から、目線を奪還する。

取材中、大鹿さんはスマスイのことを何度も「チープ」と評した。すんなりと意をキャッチできずにたまらず訊くと、「ローカルと言い換えてもいいですけど」と。神戸の土地に長く根づいているもの―――土着的ということだろうか。もうしばらく具体を聞いて掴みたい。

以前、平日午後の空いているスマスイに行ったとき、ひとに揉まれて娘を見失う心配もなかったのでゆっくりと水槽のパネルを読んでいたら、思いのほか内容やことば選びがおとな向けなことに気がついた。

その日、思わずFacebookにつぶやいた投稿。

大鹿:
2~3年前に一新したんですよ。泳ぐものを見る目線が、おとなとこどもで違うことに気づいて。パネルはおとなに向けて作りました。こどもは読まないんです。背や目線の高さのせいもあるんでしょうけど、水槽しか見ないんですよね、彼らは。魚の名前なんてどうでもよくて。ただ、おとなは先に説明を読んで理解したい。

ほんとうは、こどもにもあの内容を読んでほしいんです。ぜんぜん訳がわからないことが書いてあるんでしょうけど、ちょっとでも理解してくれたらなぁという希望は持っています。まぁ、それは置いておくとして。

こどもがじーっと水槽を見て、次の水槽に移るじゃないですか。その時間ぶんくらいをおとなが一緒に同じ水槽の前にいられるように、あのパネルは意図的に小難しい内容にしている部分もあるんですよ。だいたいおとながこどもよりも先に回っているケースが多いので。おとなを足止めするための作戦。大人主導の時間割での鑑賞を、こどもに奪還したかったんです。

パネルの内容は、「ああいうのを延々とつくるのが好き」な職員さんがほぼひとりで考えているらしい。パネルだけでなく、園内外のさまざまな企画・展示も、かつては広告代理店に委ねていた時代もあったそうだが、いまは「オール自前」だという。 

大鹿:
チープさは外のひとにわかるわけがないから。代理店のひとは能力が高くていろいろできるんでしょうけど、チープさを出すことは中の人間にしかできない。

スマスイの企画といえば、「一見ちょっと奇抜だけど、実はけっこう真面目な取り組み」(facebookより)である。「チープさ」の塩梅というのは、即ち、ここまでならみんなわかってくれるという温度感?

大鹿:
失敗したこともめちゃくちゃありますよ。怒られるものもたくさん。例えば、さかなライブ。

今までテッポウウオが餌を撃ち落とす姿を見てもらって「うわあ、すごい能力」とか言ってたんですけど。でも、なんかね、偉そうでしょ。こちちから一方的に、これがすごいんですよって見せるのが。だから、お客さんに撃ち落とされる側になっていただいて。ハエの扮装をして、ボールをぶつけられて落とされるっていう。デンキウナギも、餌が痺れて「はい、食べられました」だったんですけど、その放電する水槽にお客さんに手を突っ込んでもらって、餌と一緒に感電してもらってるんですよ。

「客に何するねん」「客にボールぶつけるって何ごとやねん」ってお叱りを受けたことは何度もあります。

テッポウウオの水の威力を体感してもらう。偉そうに一方的に教えるんじゃなくて、お客さんにそれを体験してもらって感じ取ってもらうものがあるのを見せたかったんです。ふつう、餌を撃ち落とすというと、人間って無意識にテッポウウオ側に立つんですよ。偉そうな生物なので。でも、僕らのライブでは、ハエになってもらう。撃ち落とされる側になってもらう。デンキウナギにしても、電気が出る側ではなく痺れる側になってみる。タコの吸盤の力を見せるコーナーなんかでも、タコの吸盤にくっついて引っ張り込まれる方の、カニの役をやってもらってるんですよね。

大森 ちはる

CHIHARU OMORI

夫とひよこ(娘・小1)と3人暮らし。機嫌よく気前よく、神戸のまちで日々を営みたくて。

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